東山から太陽が顔を出した時間、1人で散歩した。
うちの近所は美しい景観が守られた場所。数分もかからない所が直ぐ気持ちよい。
時々寝る前に、よし明日は早起きして散歩しようと思うのだけど、朝になると怠け者になる。そんなことを続けていた自分が好きじゃないから、今日は出掛けようとスクっと起きられた。夫を起こしてしまうんじゃないかと気にすることなしに。準備しているうちに彼は起きてきて、挨拶を交わした。
散歩に出掛けた。
好きの収穫。
白川通り沿いに出たら小さなゴミが落ちていた。3つ拾ってカバンに入れた。小学生の頃、宿題の作文で書いたくらい、道端にゴミがあると、何で道に捨てる人がいるのかと不思議だった。『ゴミはゴミ箱に』のタイトル。提出したものをそれぞれに返す時に担任の先生はみんなの前で、当たり前じゃ、と茶化した。内容を読んだはずなのに。その場を盛り上げたかったんだと思うけど、私は言い返せずに心の中で小さく怒った。その当たり前のことが出来ない人が多いから書いたんやんか。あ、今言えた。ありがとう。
帰ってきたら、彼は市場に出掛けていた。
市場行きより早く出られたこと。私の新しい変化。
ゴミをきっかけに、そこまで気にしていなかった小学生の頃の記憶が飛び出して、絞り切るまで涙が溢れ出た。”理解されずに寂しかった!悔しい!” というあの時に出すことができなかった古い感情が昇華されて、長年の重いものが取れた後、ふと“ゴミって何?“と疑問が湧いた。正義感や善悪などから離れて俯瞰して見てみた。
空き瓶など明らかなゴミでも景色として目に止まって、美しいと感じることもある。落とし物もあるし、花びらや落ち葉も箒で掃かれてゴミ箱に行くこともある。何をゴミとするかは主観か。
ひょっとしたら、今朝私が拾ったゴミ(タバコの空き箱、使用済みのマジックペン、プラスチックの袋の切れ端)も誰かのインスピレーションのきっかけになったかもしれないと思うと、自分の行動のひとつひとつが世界に影響を及ぼすんだ。だから無意識にただ反応して生きていては無責任だな。
◇
コトバンクによると
ごみ
waste; garbage
一般には生活に伴って発生する不要物をいう。ごみの定義は社会通念の違いで大きく変化する。かつてごみは無価値なものと認識されていたが,今日ではまだ使えるものが廃棄されたり,廃棄されたものが資源として再利用されるようになっており,その価値にかかわらず所有する意志を放棄したものがごみであると考えられている。
ゴミについて、思い出したことを最後に。
去年の6月、沖縄のサービスエリアにて。お手洗いに行く途中、無視できないほどに、ゴミ箱の周りがひどくひどく散乱していた。風で遠くにも飛んでいっていた。お手洗いを終えてからホテルの送迎バスに戻る前に、夫に声を掛けてひとつずつゴミ箱に入れていった。そこへひとりの小さな女の子(小学校の低学年くらい)が通りかかって、自発的に一緒にゴミを拾い始めてくれた。最後の1つを終えるまで、“ここにもあるよー!はい!“と私に渡してくれた姿が美しかった。素直な心に感動した。
あの景色は放置できなかったな。
でも、あの景色が誰かにとって必要なこともあるのかも?
行動したらどうやっても波うっちゃうんだな。
それでもやるか、やらないかも自由なんだな。
自分が自分に見せたい景色を創るため、真剣に選んで行動していこう。
text & photo by Hisayo